さんち大辞典 [ お ]
大島紬

Oshima-tsumugi

「大島紬」とは?

 大島紬は、九州から南西 約380km、沖縄とのほぼ中間地点に浮かぶ奄美大島で誕生した、世界的にも類を見ない独自性のある絹織物です。その歴史は古く、約1300年ほどとも言われ、ユネスコの世界自然遺産にも登録された奄美大島の豊かな自然により育まれてきました。大島紬の主要産地は鹿児島県奄美大島のほか、鹿児島市や、一部、宮崎県都城市などでも生産されています。泥染めによる独特な「黒」が魅力の「泥染め大島紬」の他、泥染めに藍染を重ねた「泥藍大島」や、焼き物の白薩摩にも使用する白泥を用いた「白大島」、草木染めを施した「色大島」など、そのバリエーションは豊富です。非常に精緻な絣、泥染めによる独特な色合いと艶、そして軽くてシワになりにくく、しなやかな着心地が特徴で、「いつかは大島紬を…」と数多くの着物ファンを虜にしています。製造工程は大きく分けて30~40工程ほどあり、1つ1つの工程が非常に複雑かつ繊細で、熟練した高度な技術を要します。織りあげられた大島紬は、産地組合の厳しい検査を経て、本場奄美大島紬協同組合では、通称 地球印、鹿児島市の本場大島紬織物協同組合では、旗印と呼ばれる証紙が貼られ、高い品質を保っています。結城紬と並び、日本でも最高峰の絹織物の1つが大島紬です。

大島紬 反物

<Index>

さんちの風土・豊かな自然から生まれた柄

豊かな自然と独自の文化が息づく南の島

 九州から南西 約380km、沖縄とのほぼ中間地点に浮かぶ、奄美群島最大の島が「奄美大島」です。青い空、珊瑚礁の海、生い茂るマングローブの原生林といった亜熱帯の豊かな自然に加え、琉球王朝や薩摩藩に統治された時代を経て形成された独自の文化が織りなす風土は、訪れる人々を悠久の旅へと誘います。

 島に群生する蘇鉄(ソテツ)やアダンの実、ハブなど、自然の動植物は、大島紬の絣模様のモチーフとして古来より愛されています。

 また、奄美大島は、アマミノクロウサギに代表される希少種を含む多様な生物が生息・生育していることが評価され、徳之島、沖縄島北部、西表島とともに,2021年7月にユネスコ「世界自然遺産」に登録されました。

奄美大島
ソテツ

ソテツ

アダンの実

アダンの実

マングローブ

マングローブ

アマミノクロウサギ

アマミノクロウサギ

奄美の自然から生まれた柄

龍郷柄(たつごうがら)

 大島紬のモチーフといえば「龍郷柄」が良く知られています。ハブの背模様と奄美に自生する蘇鉄の葉、ハイビスカスの花をモチーフにしたものです。この柄は、江戸末期に薩摩藩から「奄美大島らしい大島紬の柄を考案せよ」との命が下り、図案師が月夜に庭を眺めていた時、たまたま一匹の金ハブが月の光で背模様をキラキラと輝かせながら蘇鉄の葉に乗り移ろうとしたその一瞬の神秘的な美しさを図案化したことから始まったと言われています。この柄が生まれた、奄美郡龍郷町の地名より「龍郷柄」と呼ばれ、多くの大島紬ファンに愛されています。今では、熟練した織手しか作る事の出来ない貴重なものとなっています。

秋名バラ(あきなばら)

 「龍郷柄」と共に、大島紬を代表する伝統的な柄が、カゴをモチーフにした「秋名バラ柄」です。「バラ」は奄美大島の方言で竹の網かごを意味しています。東シナ海に面した龍郷町「秋名」地区で生活用具の竹で編んだ「サンバラ」と呼ばれるザルをモチーフにして作られたものがこの柄です。全体的に黒を基調に落ち着いた雰囲気が特徴で、格子柄の中の十字がアクセントとなっています。

龍郷柄

龍郷柄

秋名バラ柄

秋名バラ柄

大島紬の伝統的な絣文様

 大島紬の伝統的な絣文様は、奄美の自然や、生活に密着した道具などをモチーフとし、年月を経て様々なバリエーションが生まれました。点と線で表現される絣文様の中には、文字や人名などを意匠化したものもあります。小さな絣文様一つひとつに、先人たちの暮らしと美意識が込められており、今もなお、これらの伝統文様を大切にしながら、多彩な表現が生まれています。

花

南国に咲く花を象徴化した
イメージから文様に。

星

夜空にキラキラと輝く星の
光をイメージ。

カザモーシャ
カザモーシャ

子どもたちの玩具である
風車をモチーフに。

ガシチ(ウニ)
ガシチ(ウニ)

ウニのトゲをモチーフ
にした文様。

ソテツバ
ソテツバ

島に自生する蘇鉄の葉の
直線的なイメージを表現。

サンゴ
サンゴ

枝サンゴをモチーフ
とした柄。

大島紬の歴史

「南の島から赤褐色の紬が献上…」、約1300年もの歴史。

 大島紬の起源には諸説ありますが、鹿児島では、奈良時代以前から養蚕が行われ、手で紡いだ糸で紬が生産されていました。その頃から、奄美に自生する車輪梅(テーチ木)を使った草木染めが行われていたと伝えられています。734年には、東大寺や正倉院の献物帳に「南の島から赤褐色の紬が献上された」との記録が残されており、これが現在確認できる最古の記録であると考えられます。

江戸時代の大島紬

 江戸時代初期の大島紬は、手引きの真綿糸を用い、「地機」と呼ばれる原始的な織機で織っていました。無地または縞柄で、今のような絣柄はまだ無く、島民が自ら着用していました。1609年には、薩摩藩が、琉球王国と奄美大島を攻略し、支配下に置きます。それ以前は、琉球王国が官吏を派遣して島を統治下に置いていましたが、これを機に奄美大島は薩摩藩直轄の蔵入地となり、厳しい税が課され、島民は圧政に苦しめられるようになりました。奄美大島で作られている紬は、他に類を見ないほどの絹織物として江戸幕府にも伝え及んだといいます。井原西鶴著「好色盛衰記」には、「黒羽二重に三付紋、紬の大島の長羽織」との記載もあり、当時の江戸でも珍重されていた様子が伺えます。
 1720年には薩摩藩より「紬着用禁止令」が出されます。これにより島民が絹織物である大島紬を着用することは許されず、薩摩藩への貢物として作られるようになりました。一説によると、その頃、奄美の島民が「薩摩藩の役人に見つからないように」と田んぼに着物を隠し、のちに引き上げてみたら黒く染まっていたことから、大島紬の要である「泥染め」が始まったという言い伝えもあります。

技術革新が進んだ明治時代。高機と締機の誕生。

 明治時代に入ると、奄美大島は薩摩藩の支配から解放され、本格的に大島紬の生産がされるようになりました。大島紬は、鹿児島県をはじめ、大阪などの市場で取引され、人気を博したといいます。そして、大島紬の生産を飛躍的に効率化させる「高機」が、奄美大島出身の永江伊栄温氏によって開発されます。従来の地機は、全身の力を要する重労働でしたが、高機の誕生により生産向上が図られました。
 地機から高機に改良は進みましたが、絣表現を生む絣くくりは、緻密な絣表現の難しい手括りのままでした。高機を開発した永江伊栄温氏は明治40年頃に、締機による織締絣という方法を生み出し、精緻な絣表現が出来るようになりました。この発明は、大島紬の歴史にとって、歴史的な大発明とも言えるでしょう。こうして、精緻な絣模様の紬が生産されるようになり、大島紬の名声は益々高まっていきました。
 ちょうどそのころ、需要の伸びと共に、粗悪品も出回るようになり、製品の品質を保つべく明治34年(1901年)、奄美大島の名瀬に「鹿児島県大島紬同業組合(現 本場奄美大島紬協同組合)が設立されました。

多種多様なデザインが生まれピークを迎えた昭和~年々生産数が減少している平成・令和

 大正時代には、大島紬のほとんどが本絹糸でつくられるようになり、昭和に入ると、新たに多種多様な染色技法が生まれ、大島紬もますます発展しました。昭和30年頃には、「白大島」「色大島」が生まれ、その後、絣に色を挿していく多色使いの「摺り込み染色法」や「抜染加工法」などが開発されました。
 1975年には、国の伝統的工芸品に指定されました。その頃、大島紬の生産反数はピークを迎え、年間約30万反ほど生産されていました。本場奄美大島紬協同組合の資料(奄美大島での生産反数。鹿児島市を除く)によると、昭和47年(1972年)が最大の297,628反、その後は年々生産反数も減少し、昭和55年(1980年)=約27万反、平成2年(1990年)=約13万反、平成12年(2000年)=約4万反、平成22年(2010年)=約1万反、となり、今では令和2年(2020年)=3,385反と、大幅に生産数も減り、目にする機会も少なくなってきました。

大島紬の制作工程

さんちモノづくり動画

 情熱と愛情を持ってモノづくりに携わる方々のおはなし。大島紬独自の「黒」を生む「泥染め」の魅力とは…、世界でも類を見ないほど、複雑で細かな絣模様を織りあげる織工さんの想い…、大島紬の制作工程や、大島紬を代表する龍郷柄のいわれ、大島紬の歴史など、モノづくりに携わる方々に語っていただきました。

大島紬モノづくり動画

取材協力:牧絹織物社長 牧雅彦さん、金井工芸社長 伝統工芸士 金井一人さん、織工 伝統工芸士 柿野千恵子さん

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大島紬の主な制作工程

 大島紬は、図案作成から、糸繰り・整経、のりはり、締機、染色、泥染め、機織りと、約30~40もの工程を経てできあがります。その工程は分業制で、それぞれに専門の職人がおり、職人の手から手へと織物が渡っていくなかで、少しずつ完成形が浮かび上がってきます。1つの反物が完成するまでには、早いものでも10ヶ月以上の歳月がかかります。ここでは、大島紬の主な工程についてご紹介します。

大島紬の主な制作工程

1 図案作成

 大島紬の制作工程は、まずこの図案作成から始まります。まずはじめに、出来上がりをシミュレーションしながら、柄の大きさや色調・配色などを描き起こし、デザインの「原図」を作成していきます。次に、原図を参考としながら、使用する糸の細さなどから織密度を計算し、専用の方眼紙に「設計図」を起こします。経糸と緯糸が交わり柄となる絣を「点」で表現していく、大変緻密で根気のいる工程となります。かつては、方眼紙に手で図案を起こしていましたが、近年では、デジタル化がすすみ、コンピューターを用いて緻密な設計図を作成しています。この設計図を基に、織り上がりの風合いなどを考慮しながら、使用する糸の細さや量など、糸に関する設計をしていきます。この工程は、糸の特性や、染め・織りに至る工程を理解した上で、最適なデザインを起こす必要があるため、豊富な知識と経験、そして、時代にマッチした感性などが求められる大変な仕事です。

方眼紙に点で描写された図案

〔 方眼紙に点で描写された図案 〕

色糸の見本

〔 色糸の見本 〕

2 整経~糊張り

 設計図を基に、専用の台で必要な長さと本数の絹糸を揃える「整経」を行います。その後、整経された糸を束ねて「糊付け」し、天日で乾燥させます。糊付けの工程は、天候に左右されやすく、繊細な作業です。糊付けでムラがあり、ダマが出来て固まってしまうと、次の締機の工程に影響してしまいますので、糊を指で均一になるよう伸ばしながら、糸束同士が付着しないよう整えます。この工程での糸の張りや緩みなどは、最終的に風合いや、織での絣合わせにも影響を及ぼすため、高度な技術を要します。
 この糊付けで使用する糊は、「イギス」といわれる奄美大島の海藻を煮て溶かしたものを使用します。海藻糊を用いることで、製品にした際に虫がつきにくい、艶が出て風合いが良い、伸縮が良いなどの利点があると言われています。

糊張りの様子

〔 糊張りの様子 〕

糊の原料となる海藻イギス

〔 糊の原料となる海藻イギス 〕

3 締機(しめばた)…精緻な絣を生む世界で唯一の絣技術

 「大島紬は2度織る」と言われる通り、完成までに2回、織りの工程が入ります。1度目は、絣の模様を作るために行われる「締機」(しめばた)。絣とは、部分的に染めた経糸と緯糸を組み合わせてつくる文様のこと。通常は、絹糸を別の綿糸などで括ることで、その部分に染料が入り込まないようにしますが、大島紬では、経糸と緯糸をそれぞれ別々に織機を使って絹糸に綿糸を織り込み、「絣筵(かすりむしろ)」という織物をつくっていきます。それにより、他では見られない精緻な柄を作ることができるのです。

 綿糸が織り込まれている部分は後に泥染めをした時に染料が入り込まず、絹の地色が白く残ります。反対に、綿糸がない部分は、絹糸が露出しているので、よく染まります。大島紬では染色の際に泥を強く揉み込むため、締機で力強く締めないと染料が染み込み、意図した通りの絣模様が出せません。それゆえに「締機」は昔から男性の仕事でした。染色が終わったら、「絣筵」の綿糸はほどかれて再び絹糸の形に戻され、図案の通りに並べられます。

精緻な絣を生む締機

〔 精緻な絣を生む締機 〕

綿糸が織り込まれた絣筵(かすりむしろ)

〔 綿糸が織り込まれた絣筵(かすりむしろ) 〕

4 染色(テーチ木染め・泥染め)…奄美の自然の恵み

 「締機」を経た絹糸は、テーチ木と泥を使って染色します。奄美に自生している車輪梅(テーチ木)を大きな釜で2日間煎じると、工房全体に独特の鼻を突くような匂いが漂ってきます。この液に絹糸を漬けて力強く揉み込み、液を変えながら、20〜30回繰り返します。
泥染めに使うテーチ木は約600kg。山奥で伐採した幹をチップ状に砕き、釜に入れて煎じます。夏場は伐採から2週間ほどのうちに煎じなければ、いい染料にはなりません。テーチ木の質が泥染めの仕上がりを決めるのです。

 その後、今度は絣筵を泥田に持っていき、泥を揉み込みます。膝まである泥田の中に入り、下に溜まった泥を足で攪拌させながら、中腰の姿勢で何度も力を込めてもみ叩くように染めていきます。決して楽な作業ではありませんが、この泥染めによってテーチ木のタンニンと泥の鉄分とが化学反応を起こし、美しい黒色に染まるのです。泥田での作業が終わったら、川で泥を流し、再びテーチ木染めに戻ります。このサイクルは3、4回繰り返され、染めは延べ70〜100回行われます。

 糸の周りに均一に染料が入る化学染料と異なり、泥染めはリング状に染料が付着していきます。それを何度も繰り返すことで、化学染料には決して出すことのできない、深みのある“独自の黒”の輝きが生まれるのです。自然の染料ゆえに、3、40年経つと周囲が酸化し、徐々に茶褐色に変化していきます。その過程もまた、泥染めの魅力です。

 奄美大島の泥田には多くの鉄分が含まれており、また泥の粒子が細かくてなめらかなことが、奄美大島でのみ泥染めが生まれた理由とされています。まさに、奄美大島の土壌が生んだ奇跡の染めなのです。龍郷町には、泥染めにふさわしい約150万年前の粘土地層が残っていたため、泥染めの盛んな地域となったようです。最盛期は奄美大島に60〜70軒もあった泥染め工場ですが、今では数軒を残すばかりとなりました。当時からその多くが龍郷町に集中していたことから、龍郷町の地層が泥染めに適していたと考えられています。

テーチ木(車輪梅)はチップ状に砕かれます

〔 テーチ木(車輪梅)はチップ状に砕かれます 〕

大きな窯でテーチ木のチップを煮出し染料をつくります

〔 大きな窯でテーチ木のチップを煮出し染料をつくります 〕

茶褐色に染まるテーチ木染め

〔 茶褐色に染まるテーチ木染め 〕

奄美の自然の恵 泥染め

〔 奄美の自然の恵 泥染め 〕

炎天下での泥染め作業は過酷な労働です

〔 炎天下での泥染め作業は過酷な労働です 〕

川で泥を洗い流します

〔 川で泥を洗い流します 〕

大島こぼれ話

サスティナブルな「テーチ木」の一生

 テーチ木は、春先に梅に似た花をつけます。開花前の養分をいっぱい蓄えた冬場に切り倒し、幹を細かく砕き、煎じて糸の染めに使われます。海沿いの潮風にさらされた木ほど色素(タンニン)を多く含みます。煎じ終わったあとのテーチ木は乾燥させ、次のテーチ木を煎じる際の燃料にされ、さらに残った灰は、藍染め用の窯に入れられます。そして最後に灰は藍とともに肥料としてまかれ、奄美の自然に還ります。

テーチ木 花

5 目破り(めやぶり)・絣部分解き~すり込み による美しい多色表現

絣部分に彩色がある場合は、設計図に沿って、泥染めされた絣筵をほどき、染料を摺り込んで彩色します。締機により絣部分が染まらないよう綿糸で締められた部分をほどいて、染まっていない絣部分を出す作業を目破りといいます。色を挿す箇所のみ部分的に糸を解くため、絣部分解きといわれます。
 図案に基づきながら、目破りされた絣に染料を摺り込んでいきます。多色表現される大島紬などでは、1色1色絣に色を摺り込んでいかなくてはなりません。大変手間と忍耐を要する細かい仕事です。摺り込む際には、竹や金属のヘラ、針やスポイトなどを用いています。
 こうして染色が全て済んだら、1度締機で織りあげた絣筵を全てほどき、経糸・緯糸を整えて織の準備に入ります。

色を挿す部分を解いていきます

〔 色を挿す部分を解いていきます 〕

絣の部分に色を摺り込んでいきます

〔 絣の部分に色を摺り込んでいきます 〕

6 管巻・筬通し等、織準備

 締機で1度、絣筵として織りあげられ、テーチ木染め・泥染めを経て、絣部分にも摺り込みで色が挿され、絣筵の木綿糸を全て取り除いて絹糸だけにしたら、ようやく「先染めの糸」の用意の完了です。
 染められた糸は、色止め処理や水洗いの後、糸の保護のために糊張りされ、乾燥させた後、糸を配列していきます。緯糸は、「管巻き」され、経糸は、織機1機分に分けられた糸を、絣を揃えながら板に巻き込んでいきます。織りの工程に入る前には、このような細やかな下準備がされた上で、ようやく機織りへと移るのです。

7 機織り・絣手合わせ…美しく精緻な「織り」

 「大島紬は2度織る」と言われる織りの工程の2度目がこの「機織り」です。世界でも類を見ないほど、複雑で細かな絣模様は、大島紬の魅力の一つです。泥染めをして黒く染まった絣むしろを解くと、木綿糸で防染した箇所が白く残り、この白い部分が絣模様を生み出します。
 大島紬が織られるのは高機と呼ばれる織機です。経糸と緯糸を交互に織っていく「平織り」という技法が使われており、織り上がった反物は、表から見ても裏から見ても同じ模様が浮き上がります。たて糸が多く使われるほど絣の密度は高まり、柄も、より精緻なものとなっていきます。
 その経糸と緯糸の絣を合わせて織り上げる仕事が織工さんの役割です。少しずつ織り進めながら、針と指先を用いて経絣糸を1本1本調整し、経と緯の絣を正確に手で合わせていきます。柄によっては1日に数センチしか織れないこともある根気のいる手仕事です。織り手は着る人のことを考え、細かな部分にまで目を光らせながら、根気よく機を動かしていきます。

ズレのないよう綺麗に配列された経糸

〔 ズレのないよう綺麗に配列された経糸 〕

杼(シャトル)で緯糸を通していきます

〔 杼(シャトル)で緯糸を通していきます 〕

経と緯の絣が綺麗に合うよう確認しながら織ります

〔 経と緯の絣が綺麗に合うよう確認しながら織ります 〕

針を用いて絣糸を1本1本調整します

〔 針を用いて絣糸を1本1本調整します 〕

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 大島紬の織工には、高度な技術の習得が求められます。奄美大島には、島内に大島紬の織を学べる学校があります。2018年7月に開校した「本場奄美大島紬技術専門学院」はその内の1つ。やまとが「後継者育成事業」の一環として支援を続けています。
入校された皆さん、一人前の織工を目指して日々技術の会得に励まれています。
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8 製品検査

 奄美大島で織りあげられた大島紬は、奄美市名瀬にある本場奄美大島紬協同組合へ、鹿児島市で織られた大島紬は、鹿児島市にある本場大島紬織物協同組合の検査場へ持ち込まれます。ここでは、この道数十年のベテラン検査員が、長さ・織巾・絣不揃い・色ムラ・織りキズ・量目不足等、20項目以上に及ぶ厳重なチェックを行い、合格不合格を決定しています。大島紬の品質はこのようにして保たれています。全ての製品検査に合格したものだけに認定ラベルが貼られた後、合格印が押され印穴が開けられます。

20項目以上に及ぶ厳重なチェック

〔 20項目以上に及ぶ厳重なチェック 〕

合格した製品は、証紙が貼られ押印されます

〔 合格した製品は、証紙が貼られ押印されます 〕

更に印穴があけられます

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印穴があけられた証紙

〔 印穴があけられた証紙 〕

大島紬の証紙

「地球印」と「旗印」

 大島紬の証紙には、奄美大島産の「地球印」、鹿児島市でつくられた「旗印」、他、一部宮崎県でつくられる大島紬に貼られる「鶴印」があります。厳しい検査に合格したものにのみ貼られ、確かな品質の証となります。

 奄美大島は、戦後の1953年まで米軍政権下にあり、日本国旗がデザインされていた旧証紙マークは使用できませんでした。1953年12月25日のクリスマスに、奄美大島は本土復帰し、新たな商標を公募しました。こうして現在の「地球印」が生まれ、今もなお、奄美大島紬の証紙として「地球印」が用いられています。

奄美大島産の地球印

〔 奄美大島産の地球印 〕

鹿児島市産の旗印

〔 鹿児島市産の旗印 〕

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泥染めによる独特な「黒」が魅力の「泥染め大島紬」の他、
泥染めに藍染を重ねた「泥藍大島」や、焼き物の白薩摩にも使用する白泥を用いた「白大島」、
草木染めを施した「色大島」など、バリエーション豊富に取り揃えております。
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