時代と共に変化しつづけた
さんちの歴史
古くは奈良時代まで遡ります
木曽三川の恵みによる濃尾平野の豊かな土壌では、麻や桑がよく育ち、麻や絹織物が朝廷への貢納品として送られていたことが、奈良時代の文献(正倉院の尾張国正税帳)に記録として残ってます。
江戸時代中期頃になると、尾州では農家の副業として綿花栽培と綿織物の生産が盛んに行われるようになり、名古屋などの大市場へ出荷、日本屈指の織物さんちとして発展しました。尾州の綿織物は、明治17年(1884年)には、大阪に次いで全国第2位の生産量を誇ったと言われます。
震災を乗り越え、綿織物から
ウールの生産へシフトチェンジ
綿織物で栄えた尾州でしたが、明治24年(1891年)10月28日、マグニチュード8.0という日本内陸部最大級の地震「濃尾大震災」が綿織物産業に壊滅的な打撃を与えました。濃尾大震災により綿花の栽培が困難になっただけではなく、機織機具などもことごとく損壊したといわれます。この復旧には、新規開業と同様の費用と労力が必要になるのに加え、当時、安価なインド綿花の輸入が始まり、安い綿布が市場進出してきたこともあり、従来通りに綿織物を復旧させても難しい状況でした。そこで、何か綿織物に代わる産業を、と模索し、時代の流れを読んで「ウール」の生産へとシフトチェンジしたのです。
この大変換の立役者が「毛織物の父」と呼ばれている「片岡春吉」氏(1872年〜1923年)。片岡春吉氏は、綿織物が主軸であった時代から既にウール産業に目をつけ、独自に研究を重ねていました。震災等により綿織物の衰退が表面化すると、すぐに当時の産業組合の支援を得て私財を投じながら、ドイツとイギリスに渡航し、高品質なウール生地の生産背景を徹底的に視察しました。片岡春吉氏、最大の功績は、尾州を「木綿のさんちから、ウールのさんちへシフトチェンジさせたこと」、「尾州で一気通貫の分業体制を確立したこと」が挙げられます。
第一次世界大戦の国産需要の高まりで、
ウールの一大さんちへと飛躍
大正3年(1914年)に第一次世界大戦が始まると、海外からのウールの輸入は途絶え、その一方で、国産品愛用が唱えられたことにより、国内生産への需要が高まりました。そうした背景の中、尾州でのウールの生産は、わずか5年で20倍へと激増、国内生産のシェアも約7割を占めるほどになり、国内でのウールの一大さんちとしての地位を確立していきました。
一気通貫の分業体制を確立した尾州さんち
ウールの一大さんちとして地位を確立する背景として、「一気通貫の加工技術の集積」が挙げられます。尾州がウールの生産へとシフトチェンジした当初は、製織はできても、染色や整理・仕上げなどができる専業工場がさんちにはなく、当時の機業家は、京都の工場まで生地を運んで仕上げていました。毛織物の父と呼ばれる片岡春吉氏らは、染色や整理・仕上げの技術を、尾州さんちの機業家たちに伝授してまわりました。こうした努力が身を結び、さんち内で原料(輸入羊毛)の受け入れから「糸づくり(洗毛・紡績・撚糸)」から「染色」「製織」、「整理・仕上げ」に至る全ての技術が一気通貫でできるようになりました。これが、尾州さんちの「強み」であり、今日、世界三大ウールさんちとして称されるまでになった礎でもあります。
昭和のガチャマン景気で最盛期に
1950年に勃発した朝鮮戦争での軍服生産などの特需もあり、昭和30年代ころには「ガチャンと織機を一度動かすと万(マン)の金が儲かる」という意味の「ガチャマン景気」という言葉が生まれるほどの好景気を迎え、生産も最盛期を迎えました。このピーク時には、ウール生産関連企業は、約4,000社ほどあったと言われていますが、現在は約100社ほどにまで縮少しています。特に、整理加工関連の工場は、さんち内でもわずかとなっています。
ちょっとブレイク♪
ガチャマン景気と
名古屋のモーニング文化
・機織り機の喧騒から生まれた
「モーニング文化」
1950年に勃発した朝鮮戦争での軍服生産などの特需もあり、昭和30年代ころには「ガチャンと織機を一度動かすと万(マン)の金が儲かる」という意味の「ガチャマン景気」という言葉が生まれるほどの好景気を迎え、生産も最盛期を迎えました。ガチャマン景気に沸く尾州・一宮では、機織の音が鳴り響く工場内での商談が難しく、近所の喫茶店が応接室代わりになっていました。毎日喫茶店に来店する常連の織屋さんへの感謝として、とある喫茶店のマスターがコーヒーにゆで卵とピーナッツを添えたのが、現在、名古屋を中心にトーストやゆで卵が無料でついてくる「モーニング」の始まりと言われています。