さんち大辞典 [ ひ ]
紅型(びんがた)

Bingata

「紅型」とは?

 紅型は、沖縄がかつて琉球王国だったころに生まれた伝統的な染色技法で、「紅」は、赤色ではなく「色」全般を意味し、「型」は様々な模様・柄を指していると言われています。日差しの強い南国沖縄ならではの鮮明な色彩、大胆な配色は、古くは王族や士族をはじめ、今なお多くの人々を魅了してやみません。紅型の美しさについては、「民藝運動の父」と呼ばれる柳宗悦も「おそらく女の着物としては世界で最も美しい例の一つに挙げられるでしょう(『手仕事の日本』)」、「どんな国の女たちも沖縄の『びん型』より華麗な衣裳を身につけたことはないでしょう(『琉球の富』)」と讃えています。

城間びんがた工房 紅型宗家15代 城間栄順氏インタビュー動画(約14分)
   沖縄県立博物館・美術館で開催された「紅の衣展」にて

紅型を育んだ風土

本土とは異なる「固有の文化」

 沖縄本島を含む鹿児島県下の島々から台湾まで弓状に連なる大小無数の島々は琉球弧と呼ばれています。琉球弧は大きく3つの文化圏に分けることができます。種子島や屋久島など本土の文化圏に属している北部圏、本土や沖縄諸島の影響をほとんど受けず、南方文化の影響を受けて発展してきた宮古・八重山諸島の南部圏、そして、本土文化・南方文化の影響下、独自の文化が発展した沖縄本島をはじめとする中部圏。
 琉球王国時代には中国や日本本土、朝鮮さらに東南アジア諸国との交易を通じて、多種多様な文化を歓迎し、学び、融合し、成熟させてきました。沖縄には今でも当時からの文化が根強く残っています。大勢が伝統の衣装を身にまとい、太鼓を叩き、歌やお囃子に合わせて踊りながら沿道を練り歩く「エイサー」や、本土とは全く異なる言葉「しまくとぅば」なども、沖縄“らしい”固有の文化といえます。

沖縄県地図

紅型の色と沖縄の「日差し」

 紅型の鮮やかな色彩と大胆な配色は、南国 沖縄ならではの「日差し」と深い関係があります。紅型の特徴の1つに染色で使用する「顔料」があげられます。顔料は、一般的な染料とは異なり、水や油などの溶剤には溶けず、耐光性・耐水性に優れています。日差しの強い沖縄では、海岸に30分ほど車を置いているだけで目玉焼きができるほど。そのような中で、耐光性に優れた「顔料」による染めは、一層その独自性を高めていきました。

紅型の歴史

紅型のはじまりと琉球王府の庇護

 紅型の起源は諸説ありますが、一般的には14~15世紀の頃と言われています。当時は琉球王朝の時代。海外との交易が盛んで、交易品の中にはインド更紗、ジャワ更紗、中国の花布などがあり、それらの染色技術の影響を受けて紅型が誕生したと言われます。中国の歴史博物館には、高級な貿易品として中国に渡った当時の琉球紅型が収蔵されています。
 琉球王朝時代、王府の庇護のもと、紅型は発展していきました。今でこそ多くの方に愛され着用されている紅型ですが、当時は権力の象徴として一部の特権階級にしか着用が許されておらず、尚王家の日常着や、国賓向けの礼装、行事の際の晴れ着、国賓を歓待する芸能の舞台衣装として用いられていました。一反の布が染め上がると、型紙を王族や貴族に返却あるいは焼却するのが慣習とされ、同じ模様の紅型を他の人が着ることは許されなかったほど。いかに紅型が特別なものであったかが伺えます。紅型の職人たちは、琉球王朝時代の首府であった「首里」に住み、庶民より高い位を持つ士族として手厚く保護されました。このころ紅型制作に特別秀でた「城間家、知念家、沢岻家」の三家は、正統を伝える地位の家柄である三大宗家として、名声を博しました。当時の名残りとして紅型の工房は、今でも首里城周辺に集中しています。

琉球王朝の繁栄を物語る首里城の「守礼門」

那覇市内を一望できる首里城からの眺望

琉球処分で王府の庇護を失った紅型

 1592年、豊臣秀吉は朝鮮に出兵し、侵攻をはかりました。琉球は独立国家でしたが、秀吉は薩摩の島津氏に琉球を与える約束をします。琉球王朝 第二尚氏時代の1609年、琉球は島津軍に侵攻され、和睦を申し出るも首里城は陥落し、琉球王国は薩摩藩に降伏しました。この薩摩による琉球侵攻により、紅型の美しさを支える型紙の多くが失われましたが、紅型は衰退することなく、たくましく発展していきました。琉球侵攻後、江戸幕府との交流の中で、琉球へ伝わってきた本土の染め物や織物が、その後の様式にも影響を与え、時代と共に紅型は今の様式へと確立されていきました。
 19世紀後期、明治新政府は、それまで独立国として扱われていた琉球王国を日本の領土として扱いはじめ、1872年に琉球王国は琉球藩とされます。そして1879年、首里城が明け渡され、琉球藩の廃藩と沖縄県の設置が宣言されました。この「廃藩置県」により、1429年に尚巴志が建国して以来450年間続いた琉球王国は滅亡します。これを「琉球処分」といいます。
 日本本土から派遣された県知事や役人たちは、日本本土の文化や思想を植え付けるため、琉球独自の文化を軽視し、琉装・琉髪・姓名・年中行事などを本土風に改める政策をとりました。沖縄の「言葉」も抑圧され、本土の標準語が強要されていきます。紅型も例にもれず影響を大きく受け、琉球王府による庇護を失った紅型は、火が消えていくように衰退していきました。

多種多様な「琉球の富」に目を奪われた柳宗悦

 20世紀初頭、古来からの琉球独自の文化を軽視し、文化的同化政策を進める日本の帝国主義に異を唱えたのが、「民藝運動の父」と呼ばれる柳宗悦、その人でした。柳宗悦は、人であれ、地域、民族であれ、互いが互いを活かすことによって世界全体がより豊かになるよう願いながら、世界の平和は世界が一色になることではない、と説きました。方言を取り締まる政策に対抗した「沖縄言語論争」も、柳氏の活動の1つとして知られます。
 1938年、柳宗悦をはじめ、陶芸家の河井寛次郎と浜田庄司らが沖縄に足を踏み入れます。彼らは、色鮮やかな紅型や絣の美、温かみのある壺屋の陶器、沖縄固有の堂々とした墳墓、迫力と躍動感溢れるシーサーの彫刻など、無名の職人たちがつくった日常の生活雑貨の数々に感嘆の声を上げ、夢中になって収集しました。収集された沖縄の工芸品は、東京・駒場の日本民藝館に展示されたり、雑誌『工藝』で紹介されたりしました。柳たちの民藝運動は、多くの賛同者を得ることとなり、本土から紅型の注文も入り始めました。しかし、良いことは長く続きません。紅型が再興する間もなく迎えたのが、全てを焼き尽くした第⼆次世界⼤戦でした。

全てを奪った戦争と復興

 1945年3月、沖縄周辺には55万人の兵を集めた1500隻のアメリカ艦隊が押し寄せ、4月1日、アメリカ軍は沖縄本土に上陸し、激しい戦いが展開されました。首里城の地下にあった日本軍の司令部は、5月末にはアメリカ軍の手に落ち、6月23日に日本軍の組織的な抵抗は終わりました。この時使用された銃弾・砲弾の数は、アメリカ軍側だけで270万発にも及び、無差別に大量の砲弾が撃ち込まれる様は「鉄の暴風」と呼ばれました。戦前の沖縄の人口は49万人でしたが、沖縄県民の戦没者は15万人とも言われ、県民の3人に1人が亡くなったことになります。

戦争の悲惨さと平和への祈りを今に伝える「ひめゆりの塔」

 この激しい沖縄本土の地上戦により、先祖より代々大切に受け継がれてきた何千枚もの型紙や道具たちは全て焼き尽くされました。戦後、琉球王朝時代より紅型三宗家として続く城間家14代 城間栄喜氏と、同じく宗家 知念家の知念績弘氏が首里へ戻り、想像を絶する苦悩の中、地道な復興活動が始まりました。
 戦後の物資不足の中、拾った軍用地図を型紙に用い、割れたレコード盤を糊ヘラとして、口紅を顔料に、など代用品を用いながら一歩一歩復興を進めていきました。その復興にかけた苦労と情熱は筆舌に尽くし難いほどであったことは、いうまでもありません。

城間家と紅型 「紅型宗家 城間家 3代のものがたり」

14代 城間栄喜氏 戦後の復興

 琉球処分以降、かつて紅型三宗家として名声を博していた城間家も、不遇の時代を迎え、生活に事欠くようになっていました。そのような状況下の1908年、城間栄喜氏は13代栄松の長男として誕生しました。幼い栄喜が父親の仕事場に行くと、栄松はきまって嬉しそうに「栄喜、紅型はご先祖様からあずかった大切な仕事なんだよ。大きくなったら、お前もやっておくれ」と語りかけていたそうです。子供の頃から、紅型の技術を身に着けようと熱心に努力している栄喜に、「栄喜、技術はとても大事だ。でも、心を込めてやることを忘れてはいけない」と父である栄松は感心しながらも注意します。父の言葉一つ一つが栄喜の胸に刻まれていきました。成人を迎えた1928年、父 栄松は74歳の生涯を閉じ、栄喜は城間家14代として紅型の工房を受け継ぎました。

 1941年、日本は太平洋戦争に突入し、日々物資が不足していきます。ついには紅型の命ともいえる「顔料」も手に入らなくなってしまいました。「大阪には、顔料がいくらでもあるらしい」とのうわさ話を耳にした栄喜は、居ても立っても居られず、大事な型紙50枚を手に、大阪へ旅立ちます。大阪では、布も顔料も簡単に手に入りました。しかし、戦時下であった当時、沖縄に帰ることは出来ませんでした。栄喜は兵庫県の軍事工場に徴用され、本土に足止めされます。そしてその後、召集令状により佐世保航空隊に入隊することになりました。1944年、36歳の栄喜は、沖縄を出るときに手にした大切な型紙50枚を、父親のように慕っていた大阪の柳田米次郎に預け、佐世保に向け大阪をたちました。

 1945年8月15日、日本は無条件降伏し終戦を迎えます。終戦後、熊本に学童疎開していた長男の栄順より一通の手紙を受け取りました。栄喜は、熊本へ息子たちを迎えに行き、3年ぶりに長男の栄順、次男の真勝との再会を果たします。二人の息子を連れて沖縄に直ぐにでも帰りたいのに、引き揚げの許可はなかなか出ませんでした。栄喜は大阪へ向かい、預けておいた50枚の型紙を受け取ると、終戦の翌年、ようやく沖縄への引き揚げ許可が下り、船に乗り込みました。
 那覇港について目にした光景はあまりにも悲惨なものでした。見渡す限りの焼け野原が眼前に広がっています。妻の親戚に会った栄喜は、最後まで型紙を守っていた妻のウシと三男 博の死を知らされます。住んでいた家も失っており、城間家に代々受け継がれた何千枚もの型紙や道具も全て、焼かれていました。激しい戦火の中、生き残っていた長女の道子、そして長男の栄順、次男の真勝、これからこの子たちを食べさせていかなくてはなりません。そして何があっても、先祖から伝わる紅型を作り守っていかなくては、という決意が栄喜の胸にみなぎります。

 戦争でモノが全く無くなり、沖縄をはじめ日本中が貧しい状況になった中、城間家に代々受け継がれた仕事である紅型を何とかして継続する為、栄喜は、身の回りにあるものをとにかく利用してモノづくりをはじめました。手元に残っているのは、大阪から持ち帰った50枚の型紙だけです。捨てられていた軍用地図を使って型紙を作り、鉄砲の弾(薬莢)で糊を引く筒を作り、割れたレコ-ド盤でヘラを作ったりして、染色の道具をつくりました。材料がもっともありそうな場所は、アメリカ軍のゴミ捨て場でした。息子の栄順たちが学校から帰ってくると、ゴミ捨て場へ一緒に行くのが栄喜の日課となりました。道具は徐々に揃っていきましたが、染める布と顔料がありませんでした。紅型の特徴ともいえる黄色を生む「フクギ」は、かつてどの家にも植えてありましたが、戦争で全てなくなっています。根は地中に残っているので、掘り起こして染料にしました。赤色には口紅を用い、だいだい色は瓦礫から赤瓦を取り出してすり潰し、夜光貝の貝殻で白色を作りました。また、アメリカ軍から配給される小麦粉や大豆の入った袋を布としました。これで、ようやく紅型の制作ができるようになってきました。
 戦後2年目のある夏、まだまだ食糧難は続いており、ゴミ捨て場から拾ってきたキャベツの葉をゆでて昼食を済ませた後、次男の真勝が腹痛を起こしました。当時、病院らしい病院もなく、薬さえ手に入りません。それから2日後、次男の真勝は息を引き取りました。栄喜は、子供の世話を十分できなかった自分を責めました。

 その当時の買い手は、戦勝国であるアメリカ人しか、お金を持っていなかったので、クリスマスカ-ドを作ったりしながら、なんとか日々を繋いでいました。戦争直後1年目から14代の栄喜はクリスマスカードを製作していましたが、その型紙は、すごくストイックに彫込まれており、その気概が見て取られます。
 「染色の意味がわからないアメリカ人に対しても、絶対妥協しないところが、祖父の一貫した仕事に対する姿勢で、今現在もこの精神は受け継がれ、私たちの骨格になっています。」と栄喜氏の孫で16代の城間栄市氏は語ります。

型紙(左)、クリスマスカード(右)

(左)城間栄喜 作「梯梧に蜻蛉文様」(両面染芭蕉布地)
(右)城間栄喜 作「変わり円繋ぎ文様」(両面染宮古上布地)

 その後、時代と共に、着物も染められはじめ、復興の中でお互いの産地を励ましあおうと、人間国宝の平良敏子さんの芭蕉布の生地に栄喜氏が紅型を両面染で染めています。また、宮古上布に染めた作品なども手掛けられました。紅型は比較的おおらかな図柄が多い中で、これらの作品は細かい図柄の両面染めです。100年以上前から使われている古典の図柄がモチーフになっており、栄喜はこのような古典柄の復興を手がけていきました。

15代 城間栄順氏 きものの世界への挑戦

 城間栄順氏は、1934年(昭和9年)、14代 栄喜の長男として首里で生まれました。1944年、栄順が10歳のとき、軍による本土疎開命令で、母や弟妹と別れ熊本へ疎開しました。本土への疎開船は同時に3隻が那覇港を出港しましたが、内1隻は途中で撃沈され、多くの学童の命が奪われました。やがて戦争が終わり、軍隊で佐世保にいた父 栄喜との再会を果たしました。ようやく故郷 沖縄に帰りついた後、紅型一筋の父 栄喜の傍らで、栄順も容易ならぬ道を歩むことになります。栄順は、父 栄喜の没後、紅型宗家 城間家15代として、その心と情熱を色濃く受け継ぎました。
 栄順は栄喜より「沖縄は観光立県になっていくので、無理して大物のきものを作るのでなく、小物を作ったりとか県内で販売するモノをつくってみたらどうか」といったアドバイスを受けたそうですが、栄順の中では、「それでは高度な技術が保てないので、いつか絶対きものに挑戦するんだ」という強い想いがありました。

 沖縄では古来、「琉装」と呼ばれるきものが着られていました。昔の紅型の多くは、身八つ口があけられず、三角形のまちのあて布がされている琉装仕立となっています。おはしょりもない為、紅型の柄は全面に配されていました。
 栄順は、かつての琉装から、いわゆる小紋や訪問着といった和装へと変化していく中で、着物特有の柄合わせ、帯を合わせて着装した際の柄の配置などを研究し、紅型の高い技術を最大限に活かしつつ、“きものとしての紅型”を試行錯誤しながら意欲的に創作していきました。

衽や肩・袖など緻密な柄合わせを意識してつくられた紅型の訪問着

柄合わせが考えつくされた、訪問着をつくるのに必要な型紙の数々。

 栄順氏の創作する紅型の特徴として、琉球の紅型らしい原色の色目のみならず、本土にも馴染む「やわらかい中間色」を使っている点や、図案に沖縄の動植物などを取り入れている点などが挙げられます。
 栄順の挿す中間色は、“きものとして着てもらわなければならない”ということを試行錯誤しながら、しかも紅型らしさも表現しなくてはいけないという葛藤の中で、かなり長い時間をかけて練り上げられてきたものです。しかも中間色であっても顔料の力強さは残っており、強い日射しにも良く映えます。
 また、かつて琉球王朝時代につくられていた紅型の多くは、日本本土の松竹梅などの植物や雪輪文様、中国の鶴亀図など、沖縄にはない図柄が取り入れられていました。それに対し栄順は、身近にあるアダンやソテツ、フグやサンゴなど命輝く沖縄の豊かな自然の図柄を積極的に取り入れました。同氏の「海シリーズ」には、彼自身の目線で切り取った沖縄の豊かな自然が美しく描かれています。

沖縄の海をモチーフにした城間栄順 作の訪問着

城間栄順氏(1934年生まれ、県指定無形文化財紅型保持者、現代の名工)

2022年2月、沖縄県立博物館・美術館で開催された城間栄順 米寿記念「紅の衣展」にて
   展示された紅型の数々より一例をご紹介

16代 城間栄市氏 現代にアップデート

 戦後の復興に尽力した14代栄喜氏、きものの世界に挑戦した15代栄順氏、その心と技を引き継いでいるのが16代 城間栄市氏です。「親祖先から受け継いだ手仕事『紅型』を後世に残すことが、私の一生をかけて全うする目標であり、この言葉を胸に日々の仕事に向き合っております。」と栄市氏は語ります。栄市氏は、昔ながらの紅型の魅力はそのままに、現代に生きる人々のライフスタイルに、どうしたら受け入れてもらえるか?を日々模索しながら、紅型を“今”にアップデートしています。
 栄市氏の作品に、紅入藍型(ビンイリエーガタ)という技法でつくった「群星浜(むるぶしはま)」というものがあります。紅型と共に城間家で代々受け継いできた琉球藍で染める「藍型(エーガタ)」と紅型の技法を1枚の着物に用いた意欲作です。この技法は約100年前に途絶えてしまった技法でしたが、改めて紅型の魅力を見つめなおし、アップデートしたことが評価され、第62回日本伝統工芸展で日本工芸会新人賞を受賞しました。

城間栄市 作「群星浜」 第62回 日本伝統工芸展 新人賞 受賞作

城間栄市氏(1977年生まれ)

紅型の手仕事と道具 ― 紅型のできるまで ―

紅型の代表的な制作工程

1 図案作り

 身近な沖縄の美しい自然や、古典紅型に用いられた柄など、様々なものをモチーフにして原寸の図案を起こしていきます。紅型らしさ・魅力が発揮されるデザインを作成するためには、紅型の全工程を理解し精通している必要があります。
 軽くスケッチした下絵を、図案として起こすためには、緻密で高度な計算と経験を要します。

2 型彫り

 紅型の型彫りは、手前に引いて彫るのではなく、前方に向けて「突き彫り」する手法が用いられています。型紙の下にルクジュウ(豆腐を長時間陰干ししたもの)をあてがい、図案の下絵に沿って、シーグと言われる小刀で彫り進めていきます。彫り上がった型紙には薄い紗が張られます。型紙の出来栄えはその後の工程を大きく左右するため、相当に神経を使う仕事です。きれいな曲線、直線を生み出すためには熟練の経験を要します。

● 道具のこだわり

シーグ(小刀)

 紅型に生命を吹き込む型紙の精緻さ。その型紙作りには、鋭利な小刀がなくてははじまりません。刃先はわずかに曲線を描いており、型彫りの職人の机には、1人1人それぞれに、使い込まれた砥石がその年月と仕事ぶりを表すかのように置いてあります。この写真の小刀は、持ちやすいよう、握りなれた箸の先に刃先を付けた栄順氏手作りのもの。

● 道具のこだわり

ルクジュウ

 型彫りの台として使用している「ルクジュウ」は、長時間陰干しした豆腐です。ほかの素材では得られない柔軟性のある硬さ、油分、刃の傷跡がのこらないのが特徴で、今日でも大変重宝されています。城間びんがた工房では、工房内で自分たちがつかうルクジュウを手作りしています。

3 糊置き

 着物や帯の白生地を、反物の長さ分ある台に真っすぐ広げ、型紙を置いて、その上から糊をヘラで置いていきます。一枚の型紙の糊置きのあと、慎重に型紙を持ち上げ、模様がきっちりつながるように型紙を続けて置きなおし、糊をおく作業を繰り返していきます。そして色を定着させるため、大豆の汁でつくった呉汁を引き、次の色挿しへと移ります。「ティーベークチャラク」という沖縄語があります。手早く素早くやることが大切という意味ですが、呉引きはある程度短い時間で行わなくてはなりません。

● 道具のこだわり

糊づくり

 防染糊は、もち米と米ぬかを混合して作られ、さらに糊の亀裂防止のため塩を加えます。城間びんがた工房では、この糊も手作りしますが、うどんのコシのように、うまく炊ける時とそうでない時もあり、大変デリケートです。この糊の加減が作品の顔となって出るため、重要な仕事の1つです。

4 色挿し

 色を挿すことを「イルクベー(色配り)」といい、紅型の美しさはこのイルクベーにあると言われています。鉱物性の顔料を細かくすり潰し、呉汁で溶いて色の濃度を調整します。こうしてつくった色は、日が経つと腐ってしまうため、もって2日です。その為、反物に色を挿す際、1人1色を受け持ち、数人かかりで短い時間で素早く行います。また、顔料は染料と違い、色が生地に浸透しないため、色挿しには、彩色用の筆と、刷り込み用の筆、2本の筆を駆使しながら、顔料を生地の奥深くまで浸透させていきます。

● 道具のこだわり

女性の髪を使った手作りの筆

 城間びんがた工房では、女性の髪を用いた手作りの筆を使っています。市販の筆より紅型の繊細な表現に適しているそうで、栄順氏が美容室から譲り受け、北部の山でとった竹を使って作っています。細かな細い線には若くて細い髪の毛、素材がざっくりとした上布や大胆な構図には年長者の太くてかたい髪の毛が良いそうです。

5 隈取り

 色挿し、刷り込みの後の文様の部分に「ぼかし」を施す紅型独特の技法が隈取り(クマドウイ)です。隈取りをすることにより、立体感や遠近感、透明感を出す効果が得られ、色の補強の効果もあるとされています。色挿しの際の色より若干濃いめの染料を筆につけ、ぼかしを加えたい柄の輪郭をなぞります。それを隈取り用の手作りの筆で円を描くように擦りながら、色をぼかしていきます。

6 蒸し・水元

 挿された顔料をより生地の奥まで浸透させる為、色挿し・隈取りがされた後、蒸し箱に入れます。霧状になった100度以上の水蒸気で蒸すことで、色が定着していきます。この工程は、昔はありませんでしたが、本土との交流を通して導入されました。その後、糊のついた生地を水に浸して糊をふやかし、慎重に糊を落としていきます。生地に余分な糊が残らないよう何度も水をかえて水洗いを行いますが、その際、丹精を込めて作り上げてきた生地が折れたり、擦れがおきたりしないよう十分に注意します。

7 糊伏せ

 洗い終えた生地を台の上に張り、手作りの筒と糊を使いながら、柄の上に糊を伏せていきます。次の工程で地染めをするため、染料を乗せたくない柄の部分全てに施していく繊細で大変な仕事です。この際、糊が柄からはみ出したり、また少し足りなかったりすると、地を汚してしまったり、柄を汚してしまう為、非常に神経を使います。

● 道具のこだわり

鉄砲の玉(薬莢)でつくる筒先

 戦争で全て焼き尽くされ、物不足の中、糊伏せで使用する糊袋の筒先に用いたのが、銃弾の薬莢でした。厳しい戦闘が繰り広げられた沖縄には島のあちこちに大中小の銃弾が落ちており、それを筒先に用いたのが始まりで、城間びんがた工房では、今なお使用されています。適度な重さのある薬莢の筒先は滑りも良く糊伏せに適しているそうです。

8 地染め

 糊伏せの糊が乾ききったら、糊伏せされた柄部分以外の白く残った地を染めるため、鹿毛の大刷毛で引染めしていきます。全体的にムラが出ないよう、均一に細心の注意を払って染め上げる高度な技を要します。地色はデザインにより様々な染料で染められますが、中でも紅型ならではの黄色地は、沖縄に自生するフクギの木の皮から取れる天然植物性染料で染められています。

● 道具のこだわり

本土との交流で使用するようになった大刷毛

 地染めで使う大刷毛は、京友禅などでも用いられている鹿毛のものが使われています。これは本土との交流により紅型にも取り入れられました。本土との交流が無かった昔は、サトウキビやススキなどから刷毛を作っていたそうです。他産地の良いところも吸収しながらより良いモノづくりへと高めていく心が伺えます。

9 2度目の蒸し・水元~完成

 地染めの後、色を定着させるため、2度目の蒸しを行います。その後、糊伏せをしていた糊や余分な染料を洗い落としていきます。ここではじめて、全て染め上がった色が姿を現し、ある意味、これまでの答えを手にできる瞬間・ハイライトを迎えます。丁寧に糊を落としたら、洗った生地を張り出して乾かし、最後に湯のしをかけたら完成です。