さんちつくりべ 渡源織物

渡源織物

山形 長井

渡源織物

 山形県置賜地方の北側に位置する長井市。南にある吾妻山系を水源とする松川と、長井市を流れる白川が合流して「最上川」という名称になったことから、長井市は、「最上川発祥の地」と呼ばれています。長井では、江戸時代初頭から上杉景勝公の重臣 直江兼続の施策によって青苧(あおそ)を栽培し、日本各地へ出荷していましたが、第9代藩主上杉鷹山公の時代に養蚕地帯へと転換しました。その後、越後から職人を招き、絹織物を生産するようになり、発展していきました。明治時代には新潟県十日町から指導者を迎え、新たな絣技術が普及します。沖縄の琉球絣の模様に似た柄を多くつくっていたことから、長井でつくられた絣の着物は「米琉(よねりゅう)絣」と呼ばれ、人気を博しました。絣の技術は、日本各地で受け継がれていますが、ここ長井は「日本の絣の北限」に位置します。長井にある「渡源織物」さんは、そんな絣の北限で、伝統の絣を守りながら、ものづくりを今に伝えています。

五月雨を あつめて早し 最上川。松尾芭蕉の句でも有名な最上川。「母なる川」として地元で愛されています。長井は、最上川発祥の地とも呼ばれています。

五月雨を あつめて早し 最上川。松尾芭蕉の句でも有名な最上川。「母なる川」として地元で愛されています。長井は、最上川発祥の地とも呼ばれています。

長井では鯉も有名。上杉鷹山公が、タンパク質の乏しい置賜地区で鯉の飼育を推奨したのが始まり。長井のきれいな水のおかげで泥臭くなく、冬の厳しい寒さによって身が引き締まった一品として人気があります。脂ののった鯉は美味で、お土産としても人気があります。

長井では鯉も有名。上杉鷹山公が、タンパク質の乏しい置賜地区で鯉の飼育を推奨したのが始まり。長井のきれいな水のおかげで泥臭くなく、冬の厳しい寒さによって身が引き締まった一品として人気があります。脂ののった鯉は美味で、お土産としても人気があります。

上杉鷹山公が養蚕を奨励するために苗木を与えたものの1つと伝わる「大桑の木」も現存しています。この桑の木は昭和31年(1956年)長井市の天然記念物、山形県の重要文化財に指定されました。

上杉鷹山公が養蚕を奨励するために苗木を与えたものの1つと伝わる「大桑の木」も現存しています。この桑の木は昭和31年(1956年)長井市の天然記念物、山形県の重要文化財に指定されました。

日本列島の一番北の地域でつくられる「絣」の着物。素朴ながらも絹織物特有の艶も魅力。この長井紬・米沢紬・白鷹紬をあわせて置賜紬として、国の伝統工芸品に指定されています。

日本列島の一番北の地域でつくられる「絣」の着物。素朴ながらも絹織物特有の艶も魅力。この長井紬・米沢紬・白鷹紬をあわせて置賜紬として、国の伝統工芸品に指定されています。

作り手インタビュー

渡源織物 代表 二代目
渡邊 徹さん

渡源織物 代表 二代目 渡邊 徹さん

 渡源織物さんは、もともとここ長井の地で織物をされていたお母様とお父様が戦後まもなく長井紬の織元として創業され、渡邊徹さんは2代目にあたります。日本各地でつくられる絣の最も北に位置する長井で昔ながらのものづくりを行っている渡源織物の渡邊徹さんにお話を伺いました。

長井について教えてください。

長井は、上杉鷹山公と最上川ゆかりの地です。

 ここ長井は、もともとは「からむし(青苧)」の生産地でした。関ケ原の合戦で豊臣側についた上杉家が会津120万石から米沢30万石に移封されて米沢に移りましたが、それについてきた人全員までは面倒見れなかったんでしょうね。米沢盆地の隣に位置する長井盆地へ、あっちにいい土地があるよと、人が流れてきた場所でもあります。上杉景勝公の重臣だった直江兼続が、青苧の織物を産業として整備したと言われています。米沢を含むここら置賜地方は、古くは麻織物の産地として発展しました。

 その後、江戸時代中期、上杉米沢藩の9代目藩主「上杉鷹山公」が藩の財政立て直しのため、下級武士の内職として機織りが奨励され、養蚕がされるようになりました。うちからちょっと行ったところにも、上杉鷹山公が長井に送った桑の苗木が立派に育った「大桑の木」がありますよ。

 また、長井は、江戸時代、最上川の舟運の川港として商店や問屋が続々と立ち非常ににぎわった土地なんです。豊かな最上川や、雪が解けない飯豊山などの美しい自然の風景は春夏秋冬、1年を通していろんな表情を見せてくれます。

長井紬とは?

越後より伝わった絣による柄表現。
琉球絣に似ていることより「米琉絣」とも呼ばれます。

 長井紬は、上杉鷹山公が奨励した絹織物で、もともと無地とか縞とかだったんでしょうけど、明治時代に越後の方から「絣」の技術が伝わったんですよね。十日町の人が伝えたと言われています。当時の人も、織りで柄表現が出来るというのは、嬉しかったでしょうね。
 用いられる柄は、井桁模様だったりツバメなどの鳥や、雲など、琉球の絣でも用いられている柄が多くつくられていたので、長井紬は「米琉(よねりゅう)絣」などとも言われていますね。日本の一番「北」でつくられている絣模様と、一番「南」でつくられている琉球の絣模様が似ているなんて、面白いな~って思います。諸説ありますが、一説には琉球王朝から沖縄県に変わった時の最初の沖縄県知事が山形の人で、そうしたつながりもあって琉球絣の柄が、山形でもつくられたなんて言われています。
 後染めの着物であれば、思うような柄表現がいくらでも出来るけど、紬などの先染めは、柄を表現しようと思っても、経糸と緯糸でつくっていくので柄を表現するのは、一生懸命やっても後染めの柄表現にはかないませんね。ただ、織りの着物の風合いは、染物にはない魅力があり、生地は良い!と思います。

ものづくりで大切にしていることは?

製品としての高い水準を保ち、届けることが大切。

 おふくろの代から、ずっとですけど、織物の仕事は、家業として生活のためにやっているんですよ。趣味で織物をやっている訳ではありませんので、製品としてちゃんと流通しなくてはなりません。そこには当然「高い水準」が求められ、技術・品質どれをとってもプロの仕事でなくてはいけません。

 うちの両親は、柄表現の基となる「絣糸」をつくったりと糸の下準備を中心にやっていました。創業したのは戦後まもなくでしたが、戦後の高度成長期には、長井のさんちでも柄表現をする緯糸に捺染(プリント)するなど機械化・効率化を進める同業他社さんも多く、またそうした商品も良く売れた時代がありました。
 よそが新しい技術に移っていく中、うちの両親は、少し偏屈なところもあったのかな、そんな流れの中でも昔ながらの絣づくりを続けていました。今もその当時の絣づくりを受け継いでいます。当時、数件あった織元も、今はほとんどが廃業してしまい、長井紬の絣は、今ではここでしかつくっていません。

― 長井紬 ―
上杉鷹山公に由来する絹織物。日本最北の絣。

上杉鷹山公の奨励で養蚕が始められた山形長井の絹織物。
明治時代に越後より伝わった絣技術を用いた長井紬を代表する米琉絣。
歴史を受け継いだ素朴な魅力をご堪能ください。

図案を作成したら、織りで色柄を表現するため、経糸と緯糸それぞれ設計していきます。

図案を作成したら、織りで色柄を表現するため、経糸と緯糸それぞれ設計していきます。

緯糸の「種糸」と呼ばれる、絣の柄となる箇所を図案に沿って一つ一つマーキングします。

緯糸の「種糸」と呼ばれる、絣の柄となる箇所を図案に沿って一つ一つマーキングします。

経糸と緯糸は、絣糸・地糸それぞれ、整経・整緯されます。

経糸と緯糸は、絣糸・地糸それぞれ、整経・整緯されます。

絣となる箇所をマーキングしていきます。墨つけという工程です。

絣となる箇所をマーキングしていきます。墨つけという工程です。

絣の場所をくくって、くくった場所が染まらないようにしていきます。十日町から伝わった専用の機械を使います。

絣の場所をくくって、くくった場所が染まらないようにしていきます。十日町から伝わった専用の機械を使います。

括りが終わったら、糸を染めていきます。染めた後、括った糸をほどくと、その部分は染まらず白く残ります。絣に色を入れる場合はそれぞれ色を摺り込みます。

括りが終わったら、糸を染めていきます。染めた後、括った糸をほどくと、その部分は染まらず白く残ります。絣に色を入れる場合はそれぞれ色を摺り込みます。

染められた糸を、経糸・緯糸それぞれ1本づつにしていき、織機にかけていきます。

染められた糸を、経糸・緯糸それぞれ1本づつにしていき、織機にかけていきます。

経糸と緯糸の絣が合うよう、目で確認しながら丁寧に織りあげていきます。

経糸と緯糸の絣が合うよう、目で確認しながら丁寧に織りあげていきます。

作り手インタビュー

絣くくり
佐藤郁子さん

絣くくり 佐藤郁子さん
佐藤さんのお仕事と長井紬の魅力を教えてください。

長井紬はいろいろ合わせやすくて、臨機応変な着物です。

 私は、生まれも育ちもここ長井で、45年くらいこの仕事をしています。配色の仕事などもすることはありますが、主に柄を産み出す「絣くくり」をやっています。うちの工房でも、私の他に絣くくりをやる人もいなくって。

 長井紬は、コーディネート次第でいろいろ着方ができるのが良いですね。いろいろな帯や小物が合わせやすく、臨機応変な着方が出来ます。私自身、古着を着ることもありますが、着物を着るということはとにかく嬉しいですよね。私たちのつくる着物をどんな方が、どんな感じで着てくださるのかな~と想像するのも、ものづくりに携わるものとして、楽しい瞬間です。