長井について教えてください。
長井は、上杉鷹山公と最上川ゆかりの地です。
ここ長井は、もともとは「からむし(青苧)」の生産地でした。関ケ原の合戦で豊臣側についた上杉家が会津120万石から米沢30万石に移封されて米沢に移りましたが、それについてきた人全員までは面倒見れなかったんでしょうね。米沢盆地の隣に位置する長井盆地へ、あっちにいい土地があるよと、人が流れてきた場所でもあります。上杉景勝公の重臣だった直江兼続が、青苧の織物を産業として整備したと言われています。米沢を含むここら置賜地方は、古くは麻織物の産地として発展しました。
その後、江戸時代中期、上杉米沢藩の9代目藩主「上杉鷹山公」が藩の財政立て直しのため、下級武士の内職として機織りが奨励され、養蚕がされるようになりました。うちからちょっと行ったところにも、上杉鷹山公が長井に送った桑の苗木が立派に育った「大桑の木」がありますよ。
また、長井は、江戸時代、最上川の舟運の川港として商店や問屋が続々と立ち非常ににぎわった土地なんです。豊かな最上川や、雪が解けない飯豊山などの美しい自然の風景は春夏秋冬、1年を通していろんな表情を見せてくれます。
長井紬とは?
越後より伝わった絣による柄表現。
琉球絣に似ていることより「米琉絣」とも呼ばれます。
長井紬は、上杉鷹山公が奨励した絹織物で、もともと無地とか縞とかだったんでしょうけど、明治時代に越後の方から「絣」の技術が伝わったんですよね。十日町の人が伝えたと言われています。当時の人も、織りで柄表現が出来るというのは、嬉しかったでしょうね。
用いられる柄は、井桁模様だったりツバメなどの鳥や、雲など、琉球の絣でも用いられている柄が多くつくられていたので、長井紬は「米琉(よねりゅう)絣」などとも言われていますね。日本の一番「北」でつくられている絣模様と、一番「南」でつくられている琉球の絣模様が似ているなんて、面白いな~って思います。諸説ありますが、一説には琉球王朝から沖縄県に変わった時の最初の沖縄県知事が山形の人で、そうしたつながりもあって琉球絣の柄が、山形でもつくられたなんて言われています。
後染めの着物であれば、思うような柄表現がいくらでも出来るけど、紬などの先染めは、柄を表現しようと思っても、経糸と緯糸でつくっていくので柄を表現するのは、一生懸命やっても後染めの柄表現にはかないませんね。ただ、織りの着物の風合いは、染物にはない魅力があり、生地は良い!と思います。
ものづくりで大切にしていることは?
製品としての高い水準を保ち、届けることが大切。
おふくろの代から、ずっとですけど、織物の仕事は、家業として生活のためにやっているんですよ。趣味で織物をやっている訳ではありませんので、製品としてちゃんと流通しなくてはなりません。そこには当然「高い水準」が求められ、技術・品質どれをとってもプロの仕事でなくてはいけません。
うちの両親は、柄表現の基となる「絣糸」をつくったりと糸の下準備を中心にやっていました。創業したのは戦後まもなくでしたが、戦後の高度成長期には、長井のさんちでも柄表現をする緯糸に捺染(プリント)するなど機械化・効率化を進める同業他社さんも多く、またそうした商品も良く売れた時代がありました。
よそが新しい技術に移っていく中、うちの両親は、少し偏屈なところもあったのかな、そんな流れの中でも昔ながらの絣づくりを続けていました。今もその当時の絣づくりを受け継いでいます。当時、数件あった織元も、今はほとんどが廃業してしまい、長井紬の絣は、今ではここでしかつくっていません。