この仕事に就いたきっかけは?
敷かれたレールにのるようで嫌でしたが、どこかで継ぐという自覚はありましたね。
うちは今年で創業してから252年になります。親父が10代目で、子供のころから、親からも周りからも当たり前のように跡取り息子という感じで見られていて、何となく、この家を継がなくてはいけないんだろうな、ということは感じていました。小さいころはそれがレールに敷かれたように思えて嫌でしたけどね(笑)。
そんなこともあり、高校でも繊維関係を専攻して学んだ後、卒業してからも大学に入って染色関係の勉強をしていました。卒業後は、京都へ丁稚奉公に4年ほど出てから家に戻りました。京都の問屋さんで修行していたときには、米沢さんちに限ることなく、日本全国でつくられた多種多様な着物に触れ、見識が広がりましたが、実際にものづくりの現場にはいませんでした。家に戻り、いざ、ものづくりとなると、経糸と緯糸の計算、風合いを生む技術、どれもこれもが難しい仕事で、一からの勉強でした。ものづくりの仕事に馴染むまでには、最低でも5年くらいはかかったかと思います。
ものづくりの「こだわり」は?
ジャカード織による美しく複雑な「透かし」の柄表現
うちは、明治時代に米沢で一番最初にジャカード織機を導入しました。それ以前は、柄ものと言えば、縞とか格子、絣模様くらいしか出来なかったんですよね。ジャカード織機を入れたことで、それまでには表現できなかったような細かな柄なども創作できるようになりました。当時としては相当画期的なことだったと思います。
織物は一般的に、経糸と緯糸が交わって織り上がる「平織」が基本ですが、糸を絡めることによって隙間をつくり、美しい透かしを表現する「もじり織」を、先代であり私の父が研究し、創るようになりました。もじり織は、経糸が他の経糸と互いにからみあうことから、からみ織と言われ、夏着物として馴染のある、紗・絽・羅なども、このもじり織に属します。
うちでは、夏の着物ではなく、柄の部分だけを透かした、特殊なもじり織を手掛けています。
柄の部分だけ透かしになっている、特殊なもじり織の着物。
ジャカード織機を米沢で一番最初に導入した白根澤。ジャカードとは、フランスの発明家、ジョゼフ・マリー・ジャカールの名前に由来します。
ジャカード織機の手入れも自分たちで行います。今ではつくられない部品もあるため、壊れて解体された部品もとってあります。
織りの着物は染物と違い、実際に織ってみないとどんな色に上がるか分からない。思い描いた納得のいく出来栄えになるまで創意工夫。
染めの着物は、それはそれで染色の難しさというものはあるかと思いますが、白生地に染料で染めて行けば、その場で目で見て色が分かります。こういう色に仕上げたいと思えば、確認しながら進められます。一方、織りの着物というのは、経糸と緯糸が全く同じ色であれば、織り上がりの色も想像つきますが、経糸と緯糸の色は普通異なりますので、経と緯の色が組み合わさって深みのある織の色が生まれます。経糸と緯糸が交わって生まれる色は、最終的に織ってみないと分かりません。
今回、やまとさんのオリジナル商品を創作しましたが、指定された色合いを作り上げるのには大変苦労しました。やまとさんとのコラボレーションとなると、いつも自分たちがやりやすい色ではない、初めての色づくりからスタートします。経糸の色をどうしようか、緯糸の色をどうしようか、織り上がりの色に納得がいくまで試行錯誤し創り上げました。思い通りの色が表現できた時は、本当にうれしかったですね。