さんちつくりべ 大松染工場

大松染工場 ―東京染小紋―

東京 墨田 曳舟

大松染工場 ―東京染小紋―

 隅田川と荒川に挟まれた、東京スカイツリーにほど近い東京の下町「曳舟」に大松染工場さんがあります。上を見上げると東京スカイツリーがそびえ立つ墨田の街並みから一歩路地裏に入ると、ひときわ目を引く葛飾北斎の富嶽三十六景が描かれた外観の江戸小紋博物館と、全ての設備が整った緑色の工房が現れます。東京の今と昔が同居し、まるでタイムスリップしたかのような風情の中、大松染工場さんは、昔ながらのものづくりを、全工程、自社一貫作業で行っています。また、大松染工場さんでは、染め体験教室も開催しており(要予約)、江戸より伝わる染めの技術を広く今に伝えています。

江戸の中心地だった隅田川周辺には、武家屋敷跡や藩邸跡地などが数多くあります。(写真:水戸徳川邸内の池)

江戸の中心地だった隅田川周辺には、武家屋敷跡や藩邸跡地などが数多くあります。(写真:水戸徳川邸内の池)

隅田公園より東京スカイツリーを臨む。

隅田公園より東京スカイツリーを臨む。

葛飾北斎の富嶽三十六景が描かれた大松染工場さんの工房外観

葛飾北斎の富嶽三十六景が描かれた大松染工場さんの工房外観

東京のど真ん中に全ての設備が整った工場を有する大松染工場さん。従業員数9名、230坪もの敷地で一貫生産できるのが強み。

東京のど真ん中に全ての設備が整った工場を有する大松染工場さん。従業員数9名、230坪もの敷地で一貫生産できるのが強み。

作り手インタビュー

大松染工場 常務・伝統工芸士
中條康隆さん

大松染工場 常務・伝統工芸士 中條康隆さん

大松染工場の3代目、そして江戸小紋・江戸更紗の伝統工芸士でもある中條康隆さん。江戸小紋の伝統工芸士は、現在17~18名ほど、中でもフルで稼働しているのは10人ほどとのこと。また、江戸更紗は、24枚もの型紙を用いて多色で染め上げる大変な技術を要する伝統技法です。全ての工程の設備が整った工房にて、東京染のものづくりについて、お話しを伺いました。

この仕事に就いたきっかけは?

もともと家業を継ぐとは考えていませんでしたが、自然とこの世界に入りました。

 私は、祖父がこの地でものづくりを始めてから三代目になりますが、もともと家業を継ぐことは考えてもいませんでしたし、親父にも後を継いで欲しいと言われたこともありませんでした。子供の頃は、なんというか、昔気質の職人さんの世界に馴染めず、家の仕事もあまり好きではなかったんです。頭ごなしに決めつけるような、そんな感じが嫌で、高校出てから家を出たんです。専門学校の学費を稼ぐためにバイトを週6でやっていましたが、それはホントきつかったです。その後、家に戻りたいと親に話したら、「甘い」と怒られましたが、家に戻ってくれるのは嬉しいと言ってくれたことは覚えていますね。ただ、すぐには家には入れてもらえず、親父から「京都と新潟、どっちが良い?」と言われ、当時、きもののことも良く分かってなかった私は、漠然と京都を選び、修行に出ました。京都では、最低でも5年はいなさい、と言われていましたが、いい会社や仲間にも恵まれ、水もあっていたんでしょうね、結局8年間、京都で修行した後、家に戻り家業に就きました。
 子供の頃、親に勧められて油絵教室なんかには通っていまして、その影響か、昔から色を塗ることは好きだったんですよね。家業を継げとは言われませんでしたが、自然とこの世界に入ったという感じです。

ものづくりの「こだわり」は?

真似は大嫌い。人がやっていないこと、大変で面倒なことをやることが好き。

 私は、人と同じ、真似をすることがとにかく嫌いで、人がやっていないこと、面倒くさくて大変だからやりたくないことを狙ってやっているようなところはありますね。新しいことにチャレンジすることは好きです。先代の二代目も、昔から使われていた染めの長板(7mの台で反物を両面に貼る台)から、いち早くスクリーン台(13mの台で反物1反を真っすぐ張れる台)を取り入れました。当時では投資に数千万円はかかったと思います。誰もやっていないことを、どこよりも早くやるという性分は、きっと親父譲りなのでしょう。
 親父の代は、東京さんちも皆ライバル関係でしたが、私たちの世代は、競争相手というより仲間といった関係ですね。今は、いろいろと情報交換しながら協力体制へと変わっていってます。ですので、私がやっていることを真似されるのは、全然構わないと思っています。

東京さんちでもいち早く取り入れたスクリーン台

東京さんちでもいち早く取り入れたスクリーン台

他にはあまりないステンレスの高圧釜の設備これにより、ほぼすべての染色に対応が可能

他にはあまりないステンレスの高圧釜の設備。これにより、ほぼすべての染色に対応が可能

1/100mm単位で柄(星)合わせをしていく高度な技術「スクリーン型」

 江戸小紋は、地染めをした際に、柄となる部分が染まらないよう、型紙を用いて防染糊をつけていきます。地染めをした後、糊を落とすと、糊を伏せた部分が白く残り、江戸小紋特有の細かい模様が浮かび上がります。小紋は同じ模様(型紙)の繰り返し。「星」と呼ばれる目印を頼りに、型紙を置き、糊で柄付けをしていきますが、この目印となる「星」がずれると、型の継ぎ目が微妙に残ります。このスクリーン台では、1/100mmまで図れる「ノギス」と言われる機材を使って正確に型紙を配置していくことが出来ます。また、このスクリーン型は従来の型紙より薄いため、一度の糊付けでは、綺麗に防染が出来ず、地染めをした際、色が入ってしまう場合があります。ですので、糊付けをした後、さらに同じ場所に糊を2度~3度重ね、糊に厚みを持たせなくてはなりません。細かな柄の上に正確に糊を盛る際、ちょっとのズレも許されない、非常に繊細で集中力を要する大変な仕事です。

この仕事が好きというハートが大切だと思っています。

 「自分で好きにならないと、そして、やる気がないと、この職業はつらいですよね。」と語る中條さん。ハートが大切だと言います。色づくりの工程では、染料がすぐに乾いてしまわないよう、夏場でもエアコンはつけず、暑い日は40℃近くにもなります。また、冬は冬で、冷たい井戸水を扱うため、肉体的にも大変な仕事。そんな環境の中でも、大松染工場さんでは、20代~40代くらいの若い方々を中心に、ものづくりに励んでいます。

 大松染工場さんでは、伝統的な技術を守りながら、新しいものづくりにもチャレンジしています。「水と空気以外は全て染める」とは、中條さんの言葉。アクリルのまな板に伝統的な鮫小紋を染めたり、多数の江戸小紋の柄を染めたワイングラスマーカー(ワイングラスの脚に私のグラスですよ、と分かるように付ける目印となる商品)を作成したりと新しい挑戦も続けています。ワイングラスマーカーは、東京都主催の「東京手仕事」に応募された約140アイテムの内、10選にも選ばれました。

夏場は40℃くらいにもなるという色場。絹・木綿・合繊様々に合わせた染料が揃う。

夏場は40℃くらいにもなるという色場。絹・木綿・合繊様々に合わせた染料が揃う。

色場でつくった色糊で地染めをしていく。「しごき染め」と言われる江戸小紋特有の染め。

色場でつくった色糊で地染めをしていく。「しごき染め」と言われる江戸小紋特有の染め。

江戸小紋の魅力とは?

良い意味で地味だからこそ、現在まで残って愛されているのだと思いますね。

 江戸小紋は、武士の礼装である裃(かみしも)に小紋染めが用いられたことから始まります。紀州徳川家は極鮫の柄、加賀の前田家は菊菱の柄など大名それぞれに「定め柄」というものがありました。この裃にも使われた小紋柄の中でも、「鮫・行儀・角通し」は「三役」とも呼ばれ、格が高いものとされています。こうして武士の裃として発展していった小紋も、次第に江戸の庶民の間にも広まり、定め柄以外にも、露芝や桜といった自然をモチーフにしたもの、ハサミなど日用品をモチーフにしたものから、文字をあしらったものなど、様々な文様が江戸の庶民によってつくりあげられていきました。こうした文様は、今もなお、伝統的な江戸小紋の模様として広く愛されています。

 また、江戸時代には、奢侈禁止令といって町民は派手な色を身に着けることが出来ませんでした。そのような制約がある中で、江戸の染物屋さんたちは、「四十八茶百鼠」と言われるように、茶色や鼠色でも様々な色表現を産み出し、切磋琢磨しながら技を磨いてきました。こうした色使いは、今でも江戸小紋の伝統として残っていますが、ある意味、良い意味で、派手さがなく、地味だったからこそ、普遍的なものとして今まで受け継がれ、愛されてきたのではないか、と思います。

格の高い「鮫小紋」。江戸小紋は、裏側も地染めをする為、裏にも色が入っています。

格の高い「鮫小紋」。江戸小紋は、裏側も地染めをする為、裏にも色が入っています。

鮫・行儀・角通しの三役を雪輪模様の中にあしらった雪輪三役と、江戸の庶民にも愛された恋文の柄

鮫・行儀・角通しの三役を雪輪模様の中にあしらった雪輪三役と、江戸の庶民にも愛された恋文の柄