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花織

Hanaori

「花織」とは?

 経(タテ)糸と緯(ヨコ)糸を1本ずつ交互に織り合わせる代表的な「平織」に対し、2本・3本と糸を飛ばして変化を加えたり、文様の部分の糸を浮かせて柄を表現したりする織物は「組織織」や「浮き織」、または「紋織」と呼ばれています。「花織」は、この浮き織にあたり、沖縄では「花織」と呼ばれます。経糸が緯糸を浮かせて織り表す「小さな四角の点」で表現される様々な模様は可憐な花のように美しく、素朴ながらも立体感があります。花織は、沖縄本島の読谷村をはじめ、かつて琉球王国の王都であった首里や南風原、日本最西端の与那国島などで織られ、それぞれに異なる特徴があります。

琉球の織物 −花織の種類−

沖縄の豊かな染織

 沖縄は、日本の南に位置し、古来よりインド・ジャワ・中国など南方文化の影響を強く受けてきました。大洋に散って存在する島々を伝って沖縄へと様々な染織技術が伝えられましたが、その技は、それぞれの島々で独自の進化をし、島固有のものへと発展していきました。
 その発展を支えたのは、沖縄の豊かな自然です。染料の元となる、フクギやヤマモモ、藍などは、身近な山野にあり、繊維も芭蕉などがありました。こうした自然に恵まれたことも、沖縄で染織が栄た理由の1つでしょう。これら沖縄の貴重な財産である様々な染織は、今もなお大切に受け継がれています。

沖縄県地図

花織の種類

読谷山花織(ゆんたんざはなうい)

 600年の歴史を誇った読谷山花織は、明治時代中頃には時代の変化とともに衰退し、「幻の花織」となってしまいました。1964年に読谷村の情熱ある有志たちにより約90年ぶりに「幻の花織」が復活し、今に至ります。浮き織で表現される「花」模様には、「ジンバナ(銭花)」「カジマヤーバナ(風車花)」「オージバナ(扇花)」の3つの基本的な図柄が決まっており、それぞれに意味があります。こうした基本模様に縞や格子を組み合わせ、さらに複雑な模様を生み出した織物は、素朴ながら立体感があり、華やかな雰囲気の織物となっています。

ジンバナ(銭花)

ジンバナは、お金をかたどった模様で、「裕福」になりますようにという願いが込められています。

カジマヤーバナ(風車花)

97歳になると風車を配る沖縄の習慣より、「長寿」への祈りが込められています。

オージバナ(扇花)

末広がりの扇形には、「子孫繁栄」への願いが込められています。

首里織(首里花織・ロートン織・花倉織・ティーバナ織)

 首里は琉球王朝時代の王都で、首里城の城下町として栄えました。首里に伝わる絣織物や浮き織、紋織を総称して「首里織」と呼びます。これらの織物技術は、中国や諸外国より伝えられたものに独自の創意工夫を加え、多種多様で高度な首里独特の織物文化が花開きました。首里の織物は、士族女性の間で秘伝の技術として母から娘へと口伝で伝えられ、琉球王朝時代には、王族・士族の衣裳として愛用されました。

・首里花織
…表には緯糸の地糸が浮かび、裏には経糸が浮かぶことで柄表現をする「両面浮花織」という織り方で織られています。

・ロートン織
…首里で織られる浮織物で「道屯」「両緞」とも書かれます。裏表共に経糸が浮く織り方です。

・花倉織
…絽織と両面浮花織を組み合わせた織り方で、琉球王朝時代は、王家の妃や王女のための夏衣として用いられました。

・ティーバナ織
…手で糸を織り込んで柄表現をする縫取り織という織り方で、手花織と書かれます。刺繍のような立体感が特徴です。

与那国花織(どぅなんちまはなうい)

 日本最西端に位置し、その昔「ドナン島(渡難)」とも言われ、台湾が眺望できる与那国島。1477年、李調実録には、与那国島に漂着した朝鮮漂流民の見聞録として、機織りや衣服の記述が残されており、当時すでに織物技術があった様子が伺えます。与那国花織は、島で採れるフクギ、シャリンバイ、アカメガシワ、インド藍などの植物染料で染色し、首里花織同様の両面浮花織の技法で織りあげられ、表裏がないため、単衣にも向いています。織りで表現される花模様(星)は小さな点の集合で、点が四つのものをドゥチンバナ(四つ花)、五つものもをイチチンバナ(五つ花)、八つのものをダチンバナ(八つ花)と呼びます。

南風原花織(はえばるはなおり)

 南風原花織は、沖縄県島尻郡南風原町を中心に生産され、琉球王朝時代より王府に納める貢納布として織られていました。そのころの貢納布は、首里王府の絵師が描いた絣デザイン集の「御絵図帳(みえずちょう)」を基に、厳しい製造工程のもと作られていました。花織の技術は、首里花織同様、「両面浮花織」で、明治後期から大正初期に発達しました。

<花織の織技法>

緯浮花織

 表面には柄が、裏には糸が渡っているのが特徴で、緯浮花織という織りの技法。読谷山花織や、南風原花織の一部で用いられます。

[表面]

[裏面]

両面浮花織

 表面には緯糸、裏面には経糸が浮かぶことで柄表現をしています。首里花織・与那国花織・南風原花織などは、この技法が用いられます。

[表面]

[裏面]

縫取り織

経糸に花糸を引っかけ、緯糸で止めて織り込み、柄表現をします。ティーバナ織に用いられ、現在主に名古屋帯の制作に使われます。

両面経浮花織

柄となる部分の経糸を両面共に浮かして柄表現をする織り方で、主に首里織のロートン織に用いられます。

花倉織

夏着物で馴染の絽織と、両面浮花織を組み合わせた織り方で、もじられた部分が透かしになります。

さんち 文化の村「読谷村」

 沖縄各地で織られている「花織」ですが、ここでは、主に「読谷山花織」について、その「さんち・歴史」を紐解いていきます。

読谷村はどんなところ?

 「読谷山花織」のさんち ―沖縄・読谷村― は、沖縄本島の中部にあたる中頭郡(なかがみぐん)に位置し、東シナ海を臨む西海岸に突き出た半島一体を占めます。人口は約4万人で、日本一人口の多い村としても知られています。かつて600年以上も昔、琉球の人々が異国の交易を行った場所でもあり、北の国・南の国の船を受け入れ、豊かな文物の交流に潤い、富の恩沢を受けたと伝えられます。また、断崖絶壁が2kmも続く絶景の「残波岬」や、琉球王国のグスク及び関連遺産群として世界遺産にもなった「座喜味城跡」、ざわわと揺れる「サトウキビ畑」など、観光スポットも多数点在しています。
 読谷村には“やちむん(焼物)の里”と呼ばれる場所があり、“やちむん(焼物)”は、花織と共に、読谷を代表する工芸品として、全国の陶芸ファンを魅了しています。沖縄県内の窯元が90余りといわれる中、読谷村には、約60もの工房が集まっており、村のいたるところに、窯元が点在しています。

世界遺産「座喜味城跡」

ざわわと揺れる「サトウキビ畑」

読谷村を代表する工芸品「やちむん(焼物)」

ざ南国特有の花が咲く読谷村

読谷村の文化村づくり

 読谷村は、かつての太平洋戦争では1945年4月1日の沖縄本土への米軍上陸地点となり、村のほとんどが焦土と化しました。まさに、この読谷の地から、あの悲惨な沖縄侵攻が始まったのです。終戦後は村のほとんどが米軍基地に接収されました。アメリカの直接統治下にあった沖縄は、本土復帰を果たす1972年までの27年間、軍事的植民地下に置かれ、本土への渡航の自由も認められませんでした。米軍の支配下にあった沖縄では、人権も認められず、アメリカ軍が事故をおこし読谷の村民が犠牲になっても無罪となるような有り様でした。このような不条理に本気でたたかったのが、前読谷村 村長の山内徳信氏です。

 山内氏は、基地に対峙しうるものは「文化」であると考えました。そこでまず地元にある「織物」や「焼物」といった伝統工芸をきっちりと育て、発展させていく努力に取り組みました。文化的な村をつくることは、同時に「平和」につながっていくと考えたのです。米軍の司令官や総領事が読谷を訪れた際は、読谷山花織の工房や、やちむん(焼物)の登り窯、美術館などに案内しました。その際には、軍服ではなくスーツを着て来てくださいと注文をつけたそうです。こうして、読谷の織物や焼物など豊かな文化を山内村長は一つ一つ説明をし、その文化を通して沖縄や読谷への理解を深めてもらうよう奮闘したのです。
 さらには、読谷村の真ん中にある読谷飛行場の中に、新しい役場庁舎を作りました。かつては米軍の軍事演習でパラシュートが落ちてくる場所でしたが、役場をつくることで基地の機能は失われ、返還されました。また、その隣には、「平和の森球場」という野球場も作られ、今ではプロ野球選手がキャンプで使用したりしています。
 こうして、山内氏が読谷村の村長に就任した1974年に73%あった米軍基地は、任期中、47%にまで縮小されました。

基地の滑走路の名残を残す読谷庁舎脇の道

やちむんの里にある見事な「登り窯」

幻の「読谷山花織」の復活

一度は歴史から姿を消した読谷山花織

 読谷山花織(ゆんたんざはなうい)の起源ははっきりと分かっていませんが、15世紀頃に、中国南部や東南アジアなど南方から伝わり、読谷の地で織られていたとする説が有力です。当時琉球王朝は中国や東南アジアと盛んに交易を行っており、琉球には様々な外国の品や技術が伝えられました。立体感があり、花が咲いたかのような華やかな読谷山花織は、後に琉球王府の御用布として重用され、時代と共に、織の技術も高められていきました。細かな花模様を織り込む花織は、大変な手間を要するため、王族・士族以外は、花織が織られていた読谷村の住民だけが身に着けられる大変貴重な布だったといわれます。

 約600年の歴史を持つ読谷山花織も、明治時代に入ると、大量生産・近代化の波に飲み込まれていきます。1879年の廃藩置県・琉球処分により、読谷山花織を身に着けられる王族や士族が廃され、次第に織物自体も衰退していきました。琉球処分以降、沖縄独自の文化が、日本本土の近代化と中央集権的な価値観によって、どんどん衰退していったのです。当時の沖縄では、こうした本土への同化政策により、海をわたってくる大量生産の布地の方が伝統の染織よりもずっとハイカラで良く見え、沖縄独自の文化は見捨てられていきました。
 やがて時代とともに、読谷山花織の名は忘れられ、織ることの出来る人は姿を消してしまいました。大正年間には、早くも忘れられた布となっていたといいます。こうして、読谷山花織は「幻」となりました。

読谷山花織 復活のものがたり

 東京オリンピックが開催された1964年、将来に向けて読谷村の経済振興策を考えていた元村長の池原昌徳氏は、幻となっていた「読谷山花織」の復活を唱えました。当時の読谷村は、本土へ復帰する日がいつになるのか確かなことは何もなく、米軍施政権下の生活が日常化したころでした。ベトナム戦争が激化し、嘉手納飛行場からB52が飛び立ち、戦々恐々としている社会状況の中、池原元村長は、「読谷山花織を幻に終わらせてはいかん。これを復興再建しよう」と呼びかけたのです。それに対して立ち上がった女性たちの内1人が、後に人間国宝となる「与那嶺貞」さんでした。

 当時、与那嶺貞さんは50代、村の生活改良普及員として働いていました。この読谷村に生まれ育ち、祖母・母と引き継がれてきた織りの仕事を継ぎ、機織りには縁が深かったそうです。しかし、復元にあたって声をかけられた時、「読谷山花織」という布の名前をはじめて耳にしたのだといいます。それほどまでに、読谷山花織は、忘れられた幻の布だったのです。
 「見本」として渡された布しか初めは手がかりがありませんでした。その布を手に、貞は機仕事をやってきた90歳近い村の女性たちに聞いて歩きました。「これを織った人は神様のようだ」と島の女性たちは答えます。「それなら神様になろうかねぇ」と貞は冗談で受け答えたそうです。そのうち、読谷山花織を織っているのを実際に見たという人が見つかります。織っている風景を見た人が語ってくれる話は、貞に大きなヒントを与えました。昔の花織を全部分解して、組み合わせてみたり、試行錯誤を重ねながら、経糸と緯糸がこういうふうに織り成しているということを突き止めていきました。こうした大変な努力により、幻の読谷山花織は復活を果たすのでした。

「工房 真南風」のものづくり

 東シナ海を眼下に臨む読谷村の高台に、琉球瓦の綺麗なオレンジが沖縄の青い空に映える洗練された外観の「工房 真南風(まふえ)」があります。この工房では、首里花織・ロートン織・ティーバナ織・首里花倉織などの「花織」が創作されています。

工房 真風南の皆さん

東シナ海を眼下に臨む 工房 真南風からの眺望

沖縄の自然を活かした一期一会の「染め」
     ―天然草木染への拘り―

沖縄に自生する植物からつくる<唯一無二の色>

 工房 真南風の花織には、100%天然草木染の糸が用いられます。工房に入るとすぐ、玄関先に「フクギ」や「テカチ(車輪梅)」、「ヤマモモ」や「ガジュマル」など、沖縄に自生する植物が入ったケースが積まれています。これらの植物は、染料として売っているわけではなく、つくり手の方が山に入り、自ら採ってきます。
 化学染料であれば1回の染めで出したい色を表現できますが、天然草木染の場合は、うすくうすく重ねて染めていくことで色にツヤが出て、奥行きが生まれます。天然草木染には、どのくらいの時間、どれくらいの量で染めると良いといったレシピは存在しません。実際に色と向き合いながら熟練の勘を頼りに染め上げていきます。「ヒントにしているのは音なんです。和音によって美しく重なり響く様を、重ねて染めることで表現しています。また、思うようにコントロールが出来ない草木染は、上手く色が出たときに喜びがあり、いつも色を探し続けています。」と、染めの道34年の花城武さんは語ります。

工房 真南風の花城武さん

収集された染の材料たち

<草木染で使用する代表的な植物>

フクギ

沖縄では防風林としても植栽される「フクギ」からはやさしい「黄色」の染料がとれます。

クワディーサー

クワディーサー(モモタマナ)の大きな葉からは、茶色みがかったグレーの色が生まれます。

クール(紅露・ソメモノイモ)

クールは、ヤマイモ課の植物で地中に大きな塊根をつくり、赤味のある茶褐色の染料となります。

琉球藍

温度管理が大変で、コントロールが効かない琉球藍は、やや赤味をおびた深い藍色が特徴です。

 また、染料を取るために煮出したフクギなどは、その役目を終えると、乾かして燃やし、灰にされると、藍の灰汁として再利用されたり、やちむん(焼物)の釉薬に使われたと、余すところなく使われています。

織り手さんとの美しい調和

 工房 真南風では、花織の織り手さん一人ひとりと相談しながら、糸を染めていきます。仕上がりを想像しながら、「もうちょっと茶色味がかった黄色が欲しい…」とか、「もう少し緑がかった青の糸を使いたい」というように、細かな要望が行き交います。
 「プロのオーケストラとアマチュアのオーケストラの違いは何だろうと考えたときに、それは調和の仕方であり、表現の仕方の差であると感じました。譜面は同じかもしれません。楽器である糸を奏で、表現するのは演奏者たる織り手さん。この表現力でプロとアマの差が生まれます。糸を染めるにあたり、一人ひとりの表現力を豊かにし、表現意欲を掻き立てるような仕事がしたいと考えています。」と花城さんは言います。

美しい「花」を咲かせる織り

花織の主な工程

 工房 真南風の花織を織ってこの道40年以上の真壁さんに花織の代表的な制作工程を教えていただきました。

1 図案作り

 幾何学模様で表現される花織のデザインは、3mm方眼紙を用いてデザインが起こされていきます。模様毎に色鉛筆で色分けされ、模様が形づくられます。基本の伝統文様である、ジンバナ(銭花)・オージバナ(扇花)・カジマヤーバナ(風車花)に、無地や、格子、縞模様を組み合わせながら織り手さんが独自にデザインしていきます。

〔 3㎜方眼紙に描き起こされた図案 〕

2 糸染め・絣括り

 図案にしががって、色を染めたくない場所を綿糸で括ります。染色を施す前に行うこともありますが、一旦染めたのち、色を重ねて違う色を表現する際などは、絣括りの後、さらに糸染めが施されます。工房 真南風では、織り手さんと、染め師さんの二人三脚で、こだわりの糸が染められています。綿糸は水分を含むと繊維が縮むため、防染に適しています。

〔 きつく縛り防染する絣括り 〕

〔 絣括り後に染めた糸 〕

3 糸繰り~整経…経糸の準備

 染められた糸を綛(かせ)と呼ばれる糸巻きに巻き取り、1着の着物や帯を織るのに必要な長さと本数の経糸を整えます。

4 仮筬(かりおさ)通し~経巻(たてまき)

 筬(おさ)と呼ばれる細かい隙間のある板に、図案に合わせて経糸を一本一本割り振っていきます。その後、割り振った経糸を全て整えながら、張り具合に注意して巻き取っていきます。常に一定の力加減であることが必要です。

5 綜絖(そうこう)通し

 綜絖とは、織機で経糸を一本ごとに上下させる仕掛けの部分を指します。この綜絖が上下に動くことで、経糸が上下し、緯糸が杼(シャトル)によって通されることで、糸が織られていきます。経糸の本数分、糸を綜絖に通す必要があり、非常に根気を要する仕事です。

6 花綜絖(はなそうこう)掛け

 花織では、上下に動かす基本的な平織の綜絖に、「花綜絖」と呼ばれる「仕掛け」を使って柄の部分だけの経糸を上げ下げすることで花模様を織りだしていきます。柄のデザインに合わせて、それぞれこの「花綜絖」をつくる必要があり、大変な労力を要します。実際、織りの工程に入るまでには、相当な準備が必要です。

〔 花綜絖 〕

7 管巻き…緯⽷の準備

 図案に沿って使用する緯糸を整え、緯糸を渡すための杼(シャトル)にセットします。

8 織り

 こうしてようやく「織り」に入ることができます。花織の柄表現には様々な技法がありますが、基本は、「花綜絖」の仕掛けにより、柄となる部分を下げ、その上に緯糸を浮かして通すことで模様をつくっていきます。花綜絖は、足で下に下げると、花綜絖がかけられた経糸もさがり、そこに緯糸を通すと模様が浮かび上がってきます。

〔 花織の織機 〕

〔 足で花綜絖を下げると、その場所の経糸が下がります 〕

〔 花綜絖により下げられた経糸。この間に緯糸を通し柄を表現 〕

ティーバナ織(手花織)

想いを込めた「てぃさーじ」

 読谷村には、想い人への愛情を託し織られた小さな布の「てぃさーじ(手巾)」と呼ばれるものがあります。日本手ぬぐいよりも少し大きめの布で、旅の道中の魔除け・お守り、そして男女の愛情の証として、女性から想い人に送られらといいます。東京・駒場の日本民藝館には、「読谷花織 木綿 手巾」と表示された制作年代不明の「てぃさーじ」が数多く保存されています。

刺繍のように華やかな柄表現

 この「てぃさーじ」は、ティーバナ織と呼ばれる織技法で織られていました。ティーバナ織は、現在、主に名古屋帯の技法として用いられています。緻密な図案に沿って、柄表現したい場所に、「花糸」と呼ばれる、自身で考えた配色の柄となる色糸を、経糸にひっかけては緯糸で止めて織り込んでいきます。この「花糸」は、刺繍のように立体感が出て、華やかさがあります。また、裏から見ると、花糸が柄部分に織り込まれている様子がよく分かります。経糸と緯糸の数を数えながら、ズレないように織り込んでいきますが、これがズレると綺麗な柄にならない為、大変な仕事です。

〔 ティーバナ織による華やかな柄表現 〕

〔 ティーバナ織の裏側 〕

〔 図案に合わせて数を数えながら花糸を織り込む 〕

〔 花糸を織り込む様子 〕