門外不出の「献上柄」
博多織には「献上柄」といわれる博多独特のデザインがあります。そのモチーフとなったのが、仏具の「独鈷」と「華皿」と「縞」。この柄は、弥三右衛門とともに宋に渡った聖一国師の提案によるものでした。「献上柄」という名称は、江戸時代に福岡を治めていた筑前藩主・黒田長政が、徳川幕府への献上品として博多織を選んだことに由来します。
人々の生活が裕福になり、織物の技術が発展してきた江戸時代。一般大衆も織物を手にできるようになりましたが、「献上柄」だけは黒田藩が厳格に管理をし、12軒の機屋以外には作らせませんでした。博多織が西陣織のように全国に普及しなかったのは、そのような背景があるのです。
明治時代に入ると、博多織は自由に生産できるようになり、「献上柄」の帯も一般大衆に広がっていきました。そして時代は、大正から昭和へ。昭和30~40年代は博多織の全盛期。機屋の数も急増しました。ところが昭和40~50年代、自動車が一般家庭に普及すると、「きものでは運転がしにくい」と身に着ける衣服も変わり、きものが敬遠されるようになりました。そして、世の中は男女参画の時代へ。共働きの家庭が増え、家庭は豊かになりましたが、同時に、きものを着て帯を締めて、ゆっくりと過ごす時間は失われていきました。
博多織の産地もその変化に対応するように、従来の日常着から、より良いもの、自分の個性に合ったものを求める人が増え、作る側も、以前のようにがむしゃらに大量生産をする姿勢から、より品質の高いものづくりをしようと、意識が変わっていきました。こうして、従来の画一的なデザインから、機屋ごとの個性が花開くのがこの時代です。博多織は大きな転換期を迎えたのです。
現在では、すっかり全国区となり、広く愛用されている博多織ですが、その地位に甘んじないのが博多商人の心意気。新しもの好きの博多商人は、伝統を受け継ぎながらも、現代に合った色目や新しい文様を生み出し、若い世代にも博多織を取り入れてもらえるよう、新しいものづくりに取り組んでいます。「きものが好き」という人がいる限り、その想いに応え続けること。それが、歴史を次に繋いでいく職人たちの使命なのです。